小学6年生ころ御徒町の本屋で買ってもらった、「頭の体操」は当時の私にとって愛読書の1つだった。その中に、妙な曲線図形があり「これは何か?」という設問があった。
日本の主な山岳名と主要な河川の源流から河口まで、日本地図に描いて見せることの出来た、いわゆる地理オタクでもあった私には、これが日本列島の標高2000メートルの平断面であることは一瞬でわかった。
さて、数十年の時を経て、そんな事をふと思い出し、八ヶ岳が国定公園に指定されている、標高2200メートルラインの断面形どんなだろう?ということで早速描いてみた。巨大な洪水が襲い全てが水没してしまったら?そんな事を空想しながら絵にしてみた。
なんて味わい深い図形なんだ・・・・・。南北に連なる険しい岩の連続はゴジラの背びれを思い出す。
私がそして私の父がこよなく愛し、くまなく歩いた八ヶ岳の峰峰は永遠であって欲しい。
旧軽銀座の裏手にあるレーモンド設計の教会。1935年の建築だ。ハンガリーの古代神話建築の様なデザインは、現在においてもその価値が失われることがない。建築家の夢がここにある。
レーモンドは旧帝国ホテルの設計スタッフとして、F.L.ライトが日本につれてきた。ライトの設計意図をパースドローイングで表現するためのスタッフだった。だからすっかり身も心もライト漬けだったろう。
レーモンドが日本で独自の創作活動をするにあたって、強い個性のあるライト建築から脱し、個性を発揮していくためには並々ならぬ苦労があったろう。
そのレーモンドが吉村順三を育て、吉村順三は中村好文を育てた。
でも、たかだか90年程度の間に起きたことでしかない。
軽井沢にはなんでもあります。
東京24区などと呼ばれるくらいに、現代的な文明がある一方で、火山活動が頻繁なせいで地面の滋養分が高いのです。植物の多様な繁殖を促しますので、当然のことながら動物、昆虫の楽園でもあります。
人も動物も植物もありとあらゆる生命を活発にさせているのは、浅間山なのです。
さて、群馬の森から軽井沢に毎日通勤している多くの熊たちが、経路の途中にある熊野神社周辺は出没頻度が特に高いのです。その鎮守の森に踏み込もうというのですから物好きです。
考えてみたら熊鈴を持参するのを忘れてしまいました。最近はターザンのように綺麗な裏声が出なくなってしまいました。森の入口で「アーアアー!アアアアー!!」と叫べるでしょうか・・・・。
そこで若手のH君に振りました。目をしきりにしばたいています。明らかに嫌がっています。
とっ、何を思ったかスマートフォンをいじくっています。あら不思議!熊鈴が現れました。振るとりんりん鳴るんです。
これで安心!黄門さまの印籠のごとく手に持って、やたらと振りながら森に入っていくのでした。
りんりん・・・りんりん・・・・りんりん・・・・・。
しばらくお休みしていた軽井沢での創作活動でしたが、求めに応じてみようかな・・・などと思い始めました。
私の軽井沢通いは高校生時代に端を発します。当時の私は音楽関係に進みたいと非常に浅い思慮でおりました。軽音楽部(生楽器のみ使用可)の部長をしておりまして、合宿を学校寮のある軽井沢で度々やっていました。発声練習などをして周辺の美術館や山荘の皆さんからひんしゅくを買っていました。
そんな縁で卒業後も何かとOBの会合や親睦会を軽井沢でやっておりました。
私の建築作品の多くは八ヶ岳から甲府に集中しておりますが、軽井沢にもいたるところに私の仕事が残されています。
そんな軽井沢に中村が帰ってきました。4年ぶりです。まずやること。熊野神社へのお参りです。信心深いわけではなくその背後に広大に広がる「鎮守の森」を訪れるためです。どうしてもここから再スタートをきりたいと思いました。
熊野神社奥社は鎮守の森の楡の木の根元に本当に小さく在ったのでした。